関白一條 ぶら~りぶらぶら

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第十回 堀越館


伊豆の「公方」足利政知のこと。

8代将軍義政の実弟で出家に天竜寺の香厳院に住む僧であったが、義政が還俗させて関東に派遣した。


還俗して足利政知と名乗り東へくだった。ただ、もとの「関東公方の足利成氏」の勢威は強く、足利政知は伊豆にとどまって関東に入れないまま「公方」と称した。

これが韮山平野の堀越に御所をもつ伊豆公方、もしくは堀越公方と呼ばれる存在になった。


足利政知は30年も伊豆に足をとどめて、いつかは関東を、と機を待ち焦がれていた。

しかし、伊豆が関東を制するという幸運は源頼朝と北条氏とに起こった奇跡だけで、足利政知にはその運は巡って来なかったのである。


明応2年(1493) 北条早雲が堀越御所を急襲し、足利政知(足利茶々丸ともいう)を滅ぼした。

足利政知の墓は、願成就院にあります。

第九回 蛭ヶ小島


永暦元年(1160)伊豆に流罪となった源頼朝が34才までの20年間過ごしたとされる場所。

第八回 北條寺



鎌倉幕府・二代執権北条義時夫妻の菩提寺。

毎年一月には、ロウバイの花が境内では見ごろとなります。

第七回 北条政子 初湯の井戸


昭和29年8月 五島慶太建立。

第六回 願成就院


文治5年(1189)、北条時政が源頼朝の奥州攻めの戦勝祈願のために建立した北条氏の氏寺です。

北条時政公の御墓もあります。また国宝に指定されています。運慶作の木造阿弥陀如来像も所蔵されています。

枯山水の御庭・洗心庭(石原将光 設計)もございます。

第五回 狩野川と城山


狩野川はアユの川、友釣りの川でもあります。

一尾を捕らえるために、もう一尾を竿先で操って針にかけるという優美で知略に富んだ漁法が友釣りですが、その世界にも稀な技法は狩野川で生まれたのです。


城山、標高342メートル。

特異な山容を形づくるのが南面、南東面の岩壁で、硬い安山岩の垂直な壁が200メートルほど天に伸びる。

首都圏に遠くない城山は、岩登りの練習場として注目を集めています。

第四回 狩野川放水路


構想自体は古く江戸時代、韮山反射炉の建造で知られる代官江川坦庵が計画している。

昭和26年に着工、狩野川台風をはさんで昭和40年に完成。

全長ほぼ3キロで山の向こうの沼津・江浦湾に注ぐ。狩野川台風クラスの出水だと、中流部の洪水量は毎秒4,000トンになると推定されます。その時その半分の2,000トンを放水路に分流すれば災害は防ぐことができるのです。

第三回 狩野川台風


狩野川公園に建つ慰霊碑。

昭和33年9月26日関東地方を直撃した大型台風(最盛期には中心気圧877ミリバールを示す。湯ヶ島の総雨量は753ミリに達していた。)

狩野川流域だけで犠牲者は800人を超えた。全国では9,000人余が犠牲となった。

第二回 狩野川


日本書紀に「冬十月伊豆国に科せて、船を造らしむ。長さ十杖。・・・其の船を名づけて枯野といふ」とある。

天城湯ヶ島町松ヶ瀬で朝廷の命により献上船が作られた。その献上船”枯野”が狩野の地名となり、狩野川と呼ばれるゆえんである。


狩野川は湯ヶ島温泉から下流の名称でそれより上流は本谷川という。

第一回 伊豆長岡駅


田方平野を縦断し、蛇行する狩野川に沿って三島‐修善寺間を結ぶ伊豆箱根鉄道駿豆線、通称「伊豆っぱこ」。


その伊豆っぱこで三島より20分のところに伊豆長岡駅があります。

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